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涅 槃 会(ねはんえ)

本年は浄土宗広雲寺を会場とし、涅槃会法要を執り行いました。(平成28年2月15日)





広雲寺本堂および本尊阿弥陀如来と脇侍勢至・観音菩薩




 

法要風景






広雲寺涅槃図について

当寺所蔵の涅槃図は本堂天井より架けてなお、軸先が床にかなり長く垂れるほど巨大なものである。

右下に「生駒政勝敬畫之 落款」が見える。
生駒等寿政勝(又は市之允・号は眠翁・元禄14・1701没)は、二代藩主毛利綱廣により讃岐から召し抱えられた、藩御抱の絵師として知られ、
京都鷹司邸(綱廣姉の竹姫が鷹司房輔北政所となった)にも出勤した。

一方、涅槃図裏面に「明治四(1871)年九月 金沙山広雲寺 依願賜 拝領 十三世實誉智静(明治20・1887寂)」とある。

現在の広雲寺の境内地には、江戸期には金沙山龍昌院があり、
綱廣生母(龍昌院殿長誉光山秋英大信女・明暦元・1655没)の位牌を祀る菩提所であったが(墓所は大照院)、幕末の慶応年間に廃寺となった。
一方、龍昌院塔頭の妙雲院は、明治5年に龍昌院隠居所の栄周院と合併し、龍昌院の山号「金沙山」を引き、「広雲寺」と改号し現在に至る。

『防長寺社由来』の「龍昌院」項(安永6・1777記)に「涅槃図 生駒市之允筆、高政院殿御道具」とある。
綱廣姉の竹姫(高政院殿寂然貞心大姉・延宝7・1679没)が、龍昌院に奉納したのであろう。
また、『山口県寺院沿革史』(昭和8・1933)の「広雲寺」項に「涅槃図 生駒政勝筆 毛利家寄附 元龍昌院伝来のものなり」とある。

ゆえに、この涅槃図は龍昌院の所蔵であったものを、広雲寺が譲り受けたと知られよう。




涅槃図中の登場人物・動物について

(竹林史博著『よくわかる絵解き涅槃図』青山社、同著『涅槃図物語』大法輪閣、真鍋俊照編『日本仏像事典』吉川弘文館、等を参考とした)



釈迦の御足にすがり嘆く「毘舎離城(びしゃりじょう)老女」






嘆き悶絶し伏して気絶する「阿難(左)」を、鉄鉢の冷水で覚醒させる「阿泥楼駄(あぬるだ)(右)
錫杖を手にする「地蔵菩薩」も見える






釈迦の元へ来迎する生母「摩耶夫人」と先導する「阿那律(あなりつ)

阿難を覚醒させた阿泥楼駄は、その後三十三天へ赴き、
摩耶夫人を釈迦のもとへと先導するが、その際は「阿那律」と称され、両者は同一人物とされている。
このように異なる二つの場面を同一図画中に描く手法を「異時同図法」という(上記竹林著書参照)。






釈迦横臥の宝床脇で嘆く12才の「迦葉童子(かしょうどうじ)






宝冠を頂く一面三目の「帝釈天(左)」と、顔を覆いながら伏し泣く「愛徳夫人(あいとくふじん)(右)






頭頂に鳥形冠を頂く「迦楼羅(かるら)






緊那羅(きんなら)(中央右)」が象頭を頂くのは「頂上有一角『華厳経探玄記』」を模した姿である
赤身に三面六臂で赤い太陽と白い月を手にする「阿修羅
(上)






古代インドの鬼神に由来する「速疾鬼(そくしつき)」は、仏教に守護神として取り入れられ「羅刹(らせつ)」と称される






金剛杵を持つ二体の「二王」または「仁王・金剛力士」とも






天冠を頂き好声を発する鳥「迦陵頻伽(かりょうびんが)






「白象」と「獅子」、その間に「虎」「豹」が寄り添うが、実物未見の中世〜近世の日本人は夫婦と考えていたともいう




 

頭頂に一角、背中に甲羅の姿は、霊獣化された「(さい)






霊獣「麒麟(きりん)









土塀より夏蜜柑を臨む萩ならではの風物詩です

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