平成13年度 仏教文化講演会(展示会)記録

平成13年10月22日
於 萩市新川 ベル・ホール


中国秘蔵仏の展示とお話

安養寺住職 長谷川道隆


展示会当日のお話の要旨

 中国の首都・北京の裏道に入りますと、昔ながらの生活をしている地域があります。そういうところに行きますと、お寺に沢山の仏教信者が集まっている光景を目にします。それらの信者は小さな仏様を持っている人が多いのです。その小さな仏様を「念持仏」といいます。本日、会場に展示しましたのはその念持仏です。ご存じのように、中国人の着る着物にはたもとがありませんので、中国人は念持仏を胸や背中に結びつけています。北京大学の仏教学の先生に聞いても、中国では昔からん念持仏を胸や背中に置いていたそうで、それが今でも流行っているのだそうです。このようなことから、中国では今でも仏教信者が非常に多いということが分かります。


当日の展示品


「念持仏」についての参考資料

@『国語大辞典』(小学館)
ねんじぶつ 【念持仏】 常に自分の居間に安置し、または携帯して、念仏し供養する仏像、持仏。
じぶつ 【持仏】 (1)守り本尊として常に自分の居堂に安置し、また身近に置いて信仰する仏像。念持仏。(2)「じぶつどう(持仏堂)」の略。

A中村元『佛教語大辞典』(東京書籍)
【念持佛】 ねんじぶつ 略して持仏ともいう。その人が毎日礼拝する仏像で、また枕本尊ともいい、大体は小形の愛すべきものが多い。天平前期の傑作に橘夫人念持仏があり、厨子・龕に安置することが多く、部屋内に置いた内持仏堂から、独立か別室の持仏堂が盛んにつくられた。

B中村元他編『岩波仏教辞典』(岩波書店)
持仏 じぶつ 〈念持仏〉の略.個人が身近に安置し,つねに帰依礼拝する仏像.内仏あるいは枕もとにおくので〈枕本尊〉ともいう.法隆寺の橘夫人念持仏は日本最古の持仏として有名(→橘夫人厨子).江戸時代には,各家庭にも持仏安置が一般化L,仏壇が成立した.なお,持仏を安置する小堂ないし仏間をく持仏堂〉というが,本堂と別に子院などで僧侶が礼拝する持仏堂を〈内持仏堂〉とよぷこともある.
「年頃,多宝の御塔を一尺よばかりに造り磨きたてさせ給ひて,やがて御持仏にとおぼしおきてさせ給へりける」〔栄花駒競〕
「浄尊も尼も共に持仏堂に入りぬ.聞けば,終夜(よもすがら)共に念仏を唱ふ」〔今昔15−28〕

C『望月佛教大辭典』増訂版(世界聖典刊行協会)
ネンヂブツ 念持佛 (図像) 念持する佛像の意。略して持佛とも称す。即ち特に信仰する佛菩薩等を護持し、常に之を念ずるを云ふ。
 四分律比丘戒本に「佛像を安じて下房に在りき、己れ上房に在りて住することを得ざれ」と云ひ、南海寄帰内法傳第三臥息方法に「又復た僧房の内に尊像を安ずることあり、或は上に於てし、或は故らに龕を作る。(中略)斯れ乃ち私房の尋常禮敬の軌なり」と云へり。
 之に依るに印度に於ても夙に僧房内に佛像を安置せしを見るべし。本邦に於ては念持佛と称し、古来之を堂内に安置し、又は身に護持するの風行はれ、六角堂縁起には、同堂安置の如意輪観音は、元と聖徳太子が物部守屋に持佛として下賜せられし像なることを傳へ、法隆寺には現に橘夫人の念持佛とせらるゝ厨子を安置し、東大寺法華堂裏戸には良辨の持佛と傳へらるゝ執金剛紳像を安置し、眞如堂縁起には、同寺の不動明王像が安倍晴明の
念持佛なりしことを記し、醍醐寺本法然上人傳記所載三昧発得記には「西の持佛堂の勢至菩薩の形より丈六の面現ず」と云ひ、河内観心寺安置の愛染明王像(國寶)は、後村上天皇の御念持佛と称し、又雍州府志第四慈照寺の條に、足利義政は同寺内に東求堂を建立し、其の中の間に念持佛を安置せしことを記する皆其の例なり。
 又此の念持佛を安置する堂を持佛堂、或は内持佛堂、又は内佛とも称し、吾妻鏡第二十一建保四年五月の條には、御所の御持佛堂に七佛薬師像を安置せられしことを記し、百錬抄第十七正嘉二年の條には、御所亀山殿内に御持佛堂を供養せられしことを傳へ、高山寺縁起には、同寺内持佛堂に五秘密曼荼羅、雨界曼荼招等を安置せしことを記せり。
 又陣中に於て護持する佛像を陣佛、或は守本尊と称す。聖徳太子は物部守屋討伐の時、四天王像を奉持せられ、坂上田村麿は東征の時、毘沙門天像を護持したりと傳へ、又雍州府志第五東光寺の條に「秀吉公は甚だ斯の像を崇め、戦場に赴くと雖も必ず笈中に携ふ。故に陣佛と称す」と云ひ、三縁山志第二に、徳川家康は常に陣中に黒本尊を奉持せりと云へる如き皆其の例なり。
 又源氏物語若紫の巻、拾遺往生傳巻上、吾妻鏡第八、第十、第十三、二尊院縁起、明月記(天福二年九月)、眞俗佛事編第五、類聚名物考第二十六等に出づ。