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          お年はお幾つですか?

浄土宗・俊光寺・岩垣法順


 人が亡くなり、何才であったのかと言うとき享年、或いは行年という言葉を使います。

 享年とは天・大自然から享けた年数という意味で、この世に存在した年数のことを言います。

 そして一般的に享年は数え年で表します。

 ところが私達は普段、生まれた時を0才とする満年齢に慣れ親しんでいます。

 これは生まれた時を0としてそこから経験を積み重ねていくという人生観の表れのように思います。

 対して数え年は生まれた時を1とします。

 これは生まれた時からすでに何かを持って生まれてきているという人生観の表れではないでしょうか。

 生まれた時を1才とする考えは、卵子と精子が出会い受精するという一連の生命の流れから、出会いの瞬間を誕生とする自然な感覚のように思います。

 そして、生まれる前からの生命を見つめることで、さらにその前の生命を感じることが出来るのではないでしょうか。

 大事なことは、多くの生命の流れが受け継がれ、そうして今の私の生命があるということです。

 そうすることで私達の生命が気の遠くなるような何十億という時間の流れに乗って、伝えられてきた遺伝子を伝えて誕生した生命なのだと理解できるのです。

 数え年にはもう一つ大事な背景があります。

 それは、今見えている世界だけでなく、もう一方で生命を支えてきた世界のあることを感じさせます。

 遙かに続いてきた生命が途切れることなく続いてゆくという予感です。

 死というその刹那、死という一言を以て簡単にお終いになるはずが無く、死に臨み死を迎え死を受け入れる生命を感じるのです。

 人は死んだらおしまいなのではなく、実はそれからの方が永いと感じるのです

 数え年で年を計算すると、頂いた生命であるということが自然に理解されます。

 頂いた生命であるのなら頂いた生命のように生きなければなりません。




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