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            思い上がりのこころ  

                           (浄土真宗・西生寺・三上淳久)


狭い道で車や自転車に乗っている時、或いは歩いている時に、前から向かってくる車や自転車とうまくすれ違うために、止まって待つという光景をよく見かけます。また、誰もが経験したことがある事と思います。

止まって待っている自分の横をすれ違う相手が「そちらが待つのは当たり前だ」というような顔をして通り過ぎると、「折角待っててやったのに!挨拶もできないのか!!」と不愉快になってしまいます。

最初は『思いやり』という気持ちで待っていたのですが、最後には「待っててやったのに」と『思い上がり』の心になってしまったのです。

そして、次のところで待っていてくれた相手に、ロクに挨拶もしないで不機嫌な顔をして通り過ぎて行く私の姿があります。

譲り合いの気持ちであったにもかかわらず、相手に自分の好意(行為)に対しての代償を求めているのです。

親鸞聖人はご和讃の中で、(正像末和讃 悲歎述懐讃)

    「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 

     如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき」

と、お示しくださいました。

「小慈小悲もなき身」というのが、まさしく「待っててやろう」と思い上がっているこの私なのであります。

このような身勝手な私であるが故に、大悲の心をもって救わずにはおられないと願いをたててくださったのが阿弥陀如来様であります。

この私のためにたてられた願いをしっかりと聞いていかなければと思うことであります。


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