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慈心相向 佛眼相看(じしんそうこう ぶつげんそうかん)

浄土宗・常念寺副・野花祥生


 最近は私たちの暮らしの安全が脅かされているような事件が相次いで起こり、いっこうに減る気配もありません。

 食品だけでなく、年金や建物など私たちの生活基盤となるようなものが嘘と偽りで埋め尽くされたように感じられるのではないかと思います。
 
 このような事件が相次いで起こると、何を信じていいのか分からなくなりますし、嘘や偽りのものが世の中にあふれてくると、偽装されていないものに対しても、本当に大丈夫だろうかと、疑いの眼を向けたくなってきます。
 
 また人のちょっとした心の隙につけ込む犯罪や詐欺もたくさん起こっています。

 そういったことが相次ぐと別に悪意はなくても知らない人には疑いの目を向けてしまうような風潮があるように思えます。

 さらに親や先生に怒られたからといっては人を殺したり傷つけたりする事件もたくさん起こっています。
 
 それはやはり人の心やことばを信じられず、家族や身内でさえも信用できなくなり、人から何か言われたり何かされてもそこに悪意があるのではないかと、疑いの目で相手を見てしまうからではないかと思います。

 物に対してだけでなく、人に対しても疑いの眼差しが向けられることの多い世の中になってきたのではないかと思います。

 「慈心相向 佛眼相看」ということばがあります。

 慈しみの心で相向かい、仏の眼で相看ると書きますが、慈しみの心をもってお互いに向かい合い、佛様の眼差しでお互いのことを看る、という意味です。

 互いが相手のことを慈しみ大事に思う心から、お互いを信頼する関係が生まれるのではないかと思います。

 しかし最近は「偽心相向 疑眼相看」、偽の心で相向かい、疑いの眼で相看る、とでもいうような世の中ではないでしょうか。

 人と人との関係だけでなく、人と物、社会と社会との関わりにおいてもそのようになっているのではないかと思えます。

 本当に信じられるものがなくなって、偽物があふれてくると人の心には疑いの心があふれる。

 そのようなときだからこそ、慈しみの心と佛の眼で人と接することが求められているのではないでしょうか。




音声読み上げ機能については、日本アイ・ビー・エムの「ボイスらんど」のページ(http://www.ibm.com/jp/voiceland/)をご覧ください。