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          本来の心に任せる

(臨済宗・徳隣寺・阿部浩岳


 朝夕めっきり涼しくなり、日一日と秋の気配が濃くなって参りました。

 暫く前から薫り始めた金木犀も、徐々にその香りを濃くしています。

 皆様、夏の疲れが出てくる頃です。

 御自愛下さい。

 本日は、「念起こる これ病なり 継がざる これ薬なり」という言葉について、お話しさせて頂きます。

 私たちは普段の生活で、例えば「昨日、自分は何故あんなことをしてしまったのか。あんなことを、すべきではなかった。しては、いけなかったんだ・・・」などと、過ぎてしまってどうしようもない出来事について考えることがあります。

 しかも、まるでサイダーやビールの泡のように次から次へと沸き上がります。

 このように日常あれこれ考えることを仏教では、暗黒の海の底にある泥からぶくぶくと浮き出してくる「あぶく」のようなものだと捉え、無明・根本的無知とも言っています。

 本来、私達の心は、あくまでも清らかで、太陽のように輝いている。

 そして、私達の本来の心は外界の出来事に即座に反応するように出来ている。

 例えば、車を運転しているとき前を人が横切ったら、すぐにブレーキを踏むような素早い反応が本来の心の働きですが、このとき「あぶく」即ち妄想の暗雲で厚く覆ってしまうと、その結果心が働かなくなり、事故を起こしてしまいます。

 「念起こる これ病なり 継がざる これ薬なり」という言葉を思い出して下さい。

 冒頭に掲げたような「あぶく」の気持ちが起こったら、その考えを継がない、即ち発展させずに、本来の心に任せる。

 そうすれば、何もしなくても本来の心がものごとを解決し、うまい方向に行くように計らってくれるという意味です。

 「心に浮かぶ『あぶく』は心の病気だ。これを継がずに、そこで終わりにするのがその病を癒す方法だ」という、悩みから逃れる方法を説いた言葉です。

 「念起こる これ病なり 継がざる これ薬なり」と、唱えていきたいものです。




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